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JANE BIRKIN

JANE BIRKIN INTERVIEW "TOGETHER FOR JAPAN"

ジェーン・バーキン、彼女の勇気の歴史。

2011.04.26 update | INTERVIEW

松山晋也=文 text:Shinya Matsuyama
photographs:Shoichi Kajino、Josui(B.P.B.)

大震災と原発事故の後、多くの外国人が雪崩うつように海外へと退避する中、突然、単身で日本にやって来たジェーン・バーキン。彼女の提唱を受けて、急遽4月6日には、渋谷クアトロで入場無料のチャリティ・コンサートが行われた。当日の会場は、約12倍の競争率の下でチケットを入手した500人ほどの観客で超満員となった。
松浦俊夫のDJでスタートしたコンサートに参加したのは、自身も被災者である渡邊琢磨(コンボ・ピアノ)を筆頭に、原田郁子、篠原ともえ、金子飛鳥、中島ノブユキ、坂口修一郎、栗原務、高田漣、U-zhaanといった腕利きのミュージシャンたち。更に、鶴田真由や寺島しのぶによる詩の朗読や、黒田育世のダンスも花を添えた。
そして後半、中島、金子、坂口、栗原のバンドを従えて登場したジェーン。歌われたのは「ジェーンB〜私という女」や「シック」「無造作紳士」など計7曲。とりわけラスト、「ラ・ジャヴァネーズ」がアカペラで朗唱された時には、故セルジュ・ゲンスブールからジェーンへとしっかり引き継がれてきた普遍的ヒューマニズムが、この夜の観客だけでなく、すべての日本人に届いたようにも感じられた。涙をいっぱいためた目でじっとステージを見守る観客の万感は、ジェーンの心にもしっかり伝わったと思う。
以下、コンサート翌日に行ったジェーンの単独インタヴューを全文掲載する。今回の彼女の勇気ある行動の背景には、どのような人生経験や思いがあったのか...ひとつひとつの言葉をかみしめていただきたい。ありがとう、ジェーン・B!

JANE BIRKIN

——
以前、パリでインタヴューしたときに「お父さんから受け継いだ最大の遺産は何か?」という質問に対して、「正義の意識」と即答されましたが、子供のころから正義感の強い少女だったんですか?
ジェーン・バーキン(以下B)
ええ、そうですね。
——
お父さんと一緒に、デモによく参加していたとおっしゃっていましたね。お兄さんたちご兄弟もそういう方たちでしたか?
B:
兄や妹は、私ほどさかんに活動したりすることはなかったですが。私は兄妹の中でも、特に父と近かったので、いろんなデモに連れて行ってもらったり、社会問題に目を向けるように育てられたので、貧しい人々の家を訪ねてボランティアをすることなどを日々行なっていました。
——
たとえば、どういった例がありましたか。
B:
これは実際にあった話なのですが、まるでディケンズの小説に出てくるようなロンドンのとても貧しい地域に住んでいるトム・ベルという少年がいて、彼の母親は遺体に死化粧を施すような仕事、いわゆる「送り人」をされている人だったんです。だから、毎日自宅にたくさんの遺体を持ってきて、死に化粧を施してました。その結果、いつも一人で放っておかれ、また精神的プレッシャーもあってか、トム・ベルはマスターベーションにふけったりして、引きこもりになってしまいました。そして遂には、放火を繰り返すようになり、投獄されることになりました。そこで私の父は「そんなことをしても、彼を死に追いつめるだけだ」と言って、彼の面倒をみることにしたのです。何度も彼の家を訪ねて、「火をつけてはいけないよ」と注意したり、彼の精神面のケアをしていました。トム・ベルの母親は父にすごく感謝して、「あなたに万一のことがあった場合は、私が素晴らしい死化粧を施して差し上げます」と言いました(笑)。でも実際には、父よりもベル夫人が先に亡くなったので、この約束は実現しませんでしたが。
あと、私自身も、学生時代は寮生活をしていたのですが、将来は看護士になりたいと思い、実際にアフリカに足を運んで、ケガをしている人たちを助けたりする活動をしていました。飛行機のキャビン・アテンダントもいいかもと考えたこともあったけど(笑)...。

JANE BIRKIN

——
あなたはずいぶん前から社会運動、奉仕活動をされていますが、60年代末期にフランスに来てから、実際に今のような社会運動を行なうようになったのは、いつ頃ですか? また、それには何か特別なきっかけがあったんでしょうか。
B:
フランスでは、最初、68年の死刑反対や、中絶の権利を認めるデモなどに他の女優さんたちと一緒に参加しました。当時のパートナーであったセルジュ・ゲンスブールは、私がそういった社会活動をすることに反対していました。彼は、私にメジャーな人でいてほしいという願いがあったので、過激な社会活動をすることで、私のポップなイメージが傷つけられることを心配していたんです。でも、私は参加することを選びました。ヴェトナムのボート・ピープルの問題とか、ルワンダの内戦とか...、サラエヴォ内戦の時には実際に現地まで行ったし。サラエヴォでは、見えない場所から狙撃されてしまうので、戦車の中に入って移動したんです。そして、そういう危険な場所では、身分証明書を持っていない人のために代わりにサインをするなど、様々な手続きを行なってあげたりしていました。今も、パリのある病院の問題で戦っています。現在のサルコジ政権下では、貧富の差によって病院で治療を受けられない人たちが出てきているんです。アメリカのように。でも、それは許されるべきことではありません。ジャン=マリー・ル・ペンと娘のマリーヌが率いる国民戦線など、ファシストに対しては、常に厳しい目を持っていたいですね。
——
ゲンスブールはあなたの社会運動には反対していたということですが、実際、彼の曲のほとんどはシニカルで、そういった社会問題とは無縁なイメージを一般的に持たれているとは思います。しかし私は、彼の曲を聴くと、根底にものすごく大きなヒューマニズムを感じるんです。一緒に暮らした人間として、実際にはどう思いますか?
B:
セルジュが反対した理由は、私自身が外国人であり、これからフランスでの立場をポピュラーなものにしていく時期だったからです。彼は、私の考え方自体には反対していなかった。私のために反対してくれたのでした。彼自身、いつも自由に物事を考えていたように、私に何かを押しつけたりすることはありませんでした。彼自身も反ファシストで、実際に何かが起こったときには、まず自分が行動を起こすような男性でしたし。フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」をレゲエ・ヴァージョンでカヴァしたとき(註:79年のアルバム『Aux armes et catera』のタイトル曲「祖国の子供たちへ」)、それに抗議して、フランス空軍の旧パラシュート部隊が大勢彼のコンサートに押しかけたんだけど、俺は前に出て歌ってやる、というような魂の人でした。(註:バッキング・メンバーは全員恐れてステージ裏に逃げたが、セルジュ一人がステージに立って、アカペラで「祖国の子供たちへ」を歌った)