次の時代へのテキストが書かれた。
建築家・西沢大良氏が、新建築という建築専門誌の10月号(10/1発売号)の巻頭に『現代都市のための9か条 近代都市の9つの欠陥』という論文を発表した。
これは、建築の人のみならず、あらゆる人に読んでもらいたいテキストである。
専門用語が含まれるので、気軽に読むというわけにはいかないが、建築の知識が無い大学1、2年生を想定して丁寧に書かれた論文であるから、きっと読破できるだろうと思う。
東日本大震災によって、今僕たちは猛烈なる近代的なプロセスの中にある。
その甚大なる投資予算には驚くばかりの一方、被災した方が一刻も早く新しい生活を踏み出せるようにとも強く思うが、そもそもの話、われわれはどこを向いて新しい生活を踏み出せば良いのかという根源的なことが実は、わかっていない。
近代的な都市生活。農業や工業を地域生産しないで、都市生活を快適に送ること。
を、憲法が規定する基本的人権のベースとして、いろいろクレームする社会像自体がもう成り立っていないことは、70年代生まれ以降の人ならば実は皆思っていることだ。今の社会のままではヤバイよねと、女子高生も魚屋のおじちゃんも大学生もタクシーの運転手ももしかしたら小学生も、皆異口同音に言っている。
僕たちの未来像をきちんと描かないと、本当に地球は破産します。これは。
資本主義をいつ最初に習うだろうか。中学校かな。
これは、付加価値の関係性だよね、とドラゴンクエストⅡをクソゲーと抱き合わせで購入しなくてはならなかった少年たちは最初からそのことを理解していた。(クソゲーも実は面白かったというファミコンのプログラムとしての原始性が生む、インタラクティブ性にコミットしてのポストモダン的な解釈はここでは禁止である。)
付加価値=資本主義は、基本的に外部を必要とする。つまり何もしらずに一次生産をしてくれる第三世界が必要だし、必要とあらば搾取可能な、処女なる大地が必要だ。つまりクソゲーも仕方なしに買ってくれる少年たちと、憤慨しつつも少年たちに追加のお小遣いを出してくれる外部の経済(つまり父と母)が必要だ。
外部が存在すること。
ものすごい速度で物理的・量的に投資を行う近代都市改造がその外部からの搾取をあてにしているのは当たり前だけど、テストの成績とお小遣いの金額の関係の延長ぐらい自明のことである。
90年代後半以降が「人類史上最大の都市建設の時代」となっていること、つまり今こそが最も近代が成功をおさめている時代であり、最も問題が露呈している時代であること、そして世界がこうも簡単に近代化、資本主義化にシフトし、高度経済成長が可能となったのは、ほかならぬ日本の高度経済成長が「誰でもできます高度経済成長」パッケージを発明してしまったからであるという西沢大良氏の論考は、読み応えがある。これは意外にも初めて赤裸々に記録された僕たちの実感であるという気がする。
確かに最近のハーバード大のビジネススクールの最初の講義は、<Japan Miracle>であるという。つまり日本の高度経済成長が現代経済学の古典となっている。ここで日本人は快楽や誇りを感じたりしてはいけない。最近レム・クールハースが数名と共著で『Project Japan』を発行した。これも高度経済成長における建築家と官僚との活動の記録本だ。ここでも日本人は快楽や誇りを感じたりしてはいけない。
高度経済成長の初期、池田内閣は経済学者・下村治らをブレーンにして「所得倍増計画」を組むが、これは経済成長の指標式の発明と余剰労働人口の定点観測による実感的な経済成長予見によるものだ。つまり競馬の予想法を発明して、金額を多めに買ったようなもの。
高度経済成長の中期、オイルショック以後の新しい外部の発明の時代。列島改造論によって世論を動かし新しい外部を日本の中につくりだした。これは初期に発明された経済成長指標の高水準を保つために政策を考えるようなやりかたで、手段が目的化されている。これによって、日本の都市近郊の優良な自然遺産は破壊つくされた。例えば僕が住んでいた横浜の本牧・根岸の非人間的な開発行為も、憲法の人権、選挙制度、政策実現プロセスなどなど民主主義の方法論がひたすらに悪いほうに転用された結果だ。意図や陰謀はなく、ただオーバードライブがある。
高度経済成長の末期、日立や東芝や三菱はバンバンインフラを第三世界に建設しまくっていた。そういえばぼくの父は、日立でごみ焼却炉の新型ボイラー設計開発し、ヒューストンやらバイカル湖のほとりやらでインフラを建設しまくっていた。今考えても異常な距離感で世界中を飛び回っていた父の給与はしかし別段と高かったわけでもなく、新しい外部の開発が不可避の状況に追いやられていたのだ。さらなる外部を発見することで、バブルはかろうじて増殖しつづけた。
バブルがはじけ、資本主義的な仕組みが破綻していくことと、都市化領域が地球を覆いつくし、いよいよ外部が不在になったことは、やはり自然のなりゆきである。
今、90年代後半以降、資本主義は新しい外部を<未来>と<地球>という二つの巨大な資源に設定し、地球規模でとんでもない成功をしているかに見える。(日本は低成長に見えますが、地球規模では都市社会・近代社会は一大成功時代にあるという西沢氏の視野の広さを、皆がんばってとろう。バタフライ論理を持ちだすまでもなく、僕たちの行為はグローバルにつながっているから倫理的にも正しいし、現代的な視点だ。)
つまり、今という時代こそが、近代の問題が量的に最大に露呈しているときであるということを、その9つの欠陥とともに理解し、次の時代、現代都市という新しい社会像・生活像のデザインをしないといよいよやばいよね、という西沢大良アニキの本気論文に、僕は本気で感動しています。
ただ、もしかしたら西沢氏が言うような「冗長で異質なサブセット群」という環境は、「現代都市」ではなく新しい造語を必要とするかもしれないなあと思う。
今はじめたこと。
西沢氏が、過去40年にわたって1ミリも前進してこなかったと断じる都市計画技法(いろんな建築家は怒っているだろうなー)の中で唯一の例外としているブラジルのクリチバの都市計画を調べ始めること。
これは昨年LondonのDesign Museumでの環境とデザインの展覧会で唯一都市計画の分野から選出されていたものでもあったし、まずは数ミリずつでも前進しようと思う。
自分の心のなかでのクリアランス的な気持ちは、近代を召還するから、何しろ、ゆるっと本気でいこうと思う。
タイトル長いし、巡りすぎだし。
そう思った貴方は完全に正しい。
ぼくもそう思う。
今週の土曜日、10/1から1週間限定で公開される『5windows』は、瀬田なつきさんと蓮沼執太さんによってつくられた実験映画である。4つの物語が時間と空間を横断しながら1つにつむがれる物語。撮影時に流れている音を音楽として使う/役者の鼻歌が環境音と混ざりながら音楽に変容するなど、映像と音楽との新しい可能性にチャレンジした意欲作である。
面白いのは実験的でありながら、仕上がってくる映像や音が、胸キュンにキュートであることだ。
つまりキュートであることと、実験的であること。
カワイイと思うことと、批評的であること。
これらは矛盾しないと彼らは普通に体言している。さすが、『嘘つきまーくんと壊れたみーちゃん』を抜群にチャーミングにとった瀬田なつき監督だし、音と声のオーケストレーションをテーマに飄々と作品をつくる蓮沼執太とのコラボレーションである。
この素晴らしく実験的でチャーミングな映画を上映する会場として『港のスペクタクル―漂流する映画館』という舞台が用意されている。(わかりにく!)
『漂流する映画館』は街に点在する5つのスクリーンを回遊する、全く新しい映画館体験である。
5つのスクリーンは、カフェのラウンジに積み上げられたスクリーン
街の公民館に突然つくられるミニミニシアター
高架下を映画館としてみたてたスクリーン
民家の窓を転用したスクリーン
夜のミニシアターのレイトショーをジャックする
とどれも普通ではない。
実験的な映画を、実験的な会場で、しかも自分たちが回遊しながら見る。
やれることを詰め込みすぎて濃厚になってしまった。
でも、二度とは無いほどにステキなことが起きていると思うんです。
しかもこの想いがさらに暴走し、是非一人でも多くの人にこのステキを共有してもらいたいために、計画されたのが冒頭のトークであります。彼らは、トークゲストでもありながら、この『漂流する映画館』『5windows』という実験に興味をもってくれた、第一の観客である。
是非このトークを聞いて、一緒に実験を見て、感動したり、文句言ったり、お酒飲んだり、ご飯食べたり、と盛り上がって欲しい。
そうしたことが何よりも、ぼくたち、あなたたちの都市のありようや生活のありようをつくると信じているし、ドリフターズ・インターナショナルがやれる、<都市計画>なのだと考えている。
見逃さないでね。こんな大変なプロジェクト、そうそうやれるものではないからさ。
『港のスペクタクル』がいよいよ本格スタートしている。
この独立的・楽天的・野心的・耽美的な試みを盛り上げていくにあたり、一つのテキストをパブリックな場に再掲したいと思う。これは8年前の私が、同時代を生きる人間の天才的企みに遭遇し、心の震えが止まらずに記したもので、私にとって最初の批評文と呼ぶべきものである。
この鮮烈な時空間体験が原風景を貫いて以来、身体のいくつかのチャンネルはずっと開きっぱなしになっているように思う。
2003/04/11(Fri)
『Chamber orchestra in CHING-DONG Stadium』
本田祐也+Theatre PRODUCTS
(「現代の音楽展2003 室内オーケストラの領域Ⅲ」@上野文化会館小ホール)
小さい頃、母に連れられて行った酉の市は、記憶の中でとても賑やかだ。夜の闇に浮かび上がる提灯の波、叫び狂うテキ屋、巨大な熊手ばかりの店店店・・・、目にしたり耳にしたりするものどれもがあまりにも唐突であまりにも過剰で、私はただただあっけにとられ、それは「賑やかさ」というような体験として記憶に残っている。
とても丁寧に、しかし何か震えるようにか弱く始まったその出だしから、妙な胸騒ぎが止まらない。だいたいにおいて、指揮台の上に本田裕也本人がいないことがどうもおかしい。TVショーに出てきそうな「いかにも」な年輩の男性指揮者が指揮棒を振り、ファッションの基調はあくまでブラックパンツスーツかブラックロングドレスな「いかにも」優秀そうなオーケストラが良質な音を奏でるその風景が普段にも増してやけに軽薄に感じられてしまうのは、会場内に場違いなまでに不穏な気配が充満していたからだったようにも思う。すでに曲が始まっているのに、まだ何も始まっていないかのような緊張感・期待・予感が場内を満たしている。
ふいに前方の客席に座っていた女性が立ち上がり、来ていた黒いコートを儀式的な慎重さで脱ぐや、コートの中からはオーケストラの面々とは対照的な、レースを基調として金や黄色をその上にあしらった驚くほどに派手で自己主張の強い衣装があらわになる。女性はそのままおもむろに壇上にあがると、そこにゴロリと転がっていた箱(箱!いったいいつからそこにあったのか!)にごく自然に腰掛けた。オーケストラは何事もないように丁寧な演奏を続けている。一呼吸。二呼吸。その女性がいきおいその腰掛けた箱を打楽器のように(あるいはそれは打楽器なのかもしれない)激しくリズミカルに叩き出した瞬間に、その原始的で高揚感のある音を合図に不穏な何かがズルリと動きだしていった。
ゆっくりと今度は2人が客席で立ち上がると、儀式的な慎重さと確実さで、一様に地味なコートを脱ぎ捨てる(ご丁寧にコートを脱がす役回りの人もいる)。コートの下からはやはりレースを貴重としたやけに色とりどりな衣装があらわとなり、ゆっくりと先ほどの女性と交代で壇上に上がる。「いかにもな」指揮者の背中、つまり客席から見て壇上の手前に立ち、深くゆっくり一礼。一呼吸。はじけるように演奏を始める。ふと気づく。いつの間にか前方の客席の中に、本田裕也が立ち上がっていて、裸電球のスタンドを手元灯に客席から壇上を斜めに見つつ虚空をひっかくように指揮をしている。その指揮に導かれるようにして、あるいはその指揮とは全く無関係なように、一人また一人と立ち上がる。
儀式的な一連の「しぐさ」でゆっくりと壇上にあがり、荒削りでエモーショナルな演奏を断続的に続けていく。その振る舞いの荒々しいバランスに、いつのまにか唾を飲み込むのにも気を遣うほどに私の身体は緊張を強いられてしまっている。ふいに、何人かが会場の中廊下に純白の布を転がし始めた。
敷き詰められた白い布の上に、いくつか裸電球のスタンドが置かれていく。いつのまにやら十数人にもなった「派手な」楽団員は一人また一人と、会場に敷かれたその布の上を「派手な」身振りで闊歩していく。演奏という名を借りたファッションショー?音楽とファッションのコラボレーション?。それはそんな美しくもなく解りやすくもない。ワンカットで撮り続けた無編集のフィルムのように、無駄なもので溢れているし、恐ろしく冷静な構築と恐ろしく適当な思いつきとが同居し、素晴らしい装飾と飾り気の無い空気とがまぜこぜになっていく。遠ざかる音、近づいてくる音、ちらつく派手な色彩、すれ違う人影、派手な身振り、大人しく演奏を続けるオーケストラ、重なり合う音の固まり、なすすべなく巻き込まれてしまった観客達の息をのむ姿、裸電球のスタンドが照らし出す美しい空間(そう、この前川國男によって設計されたホールは空間がとても素晴らしいのだ)、スポットライトが照らし出す壇上、会場の壁を彩るコンクリートの模様、全てを指揮しているような指揮していないような本田裕也のしぐさ、オーケストラに指揮を続ける「オジサン」指揮者、もはや正面性もなにも失ってしまった劇場空間。いつの間にかどうしようもないくらいに「壮大に」賑やかになってしまった場内で、私はただただ痺れ、続けば続くほど「賑やか」になるこの時間が少しでも長く続くことを願った。
あるいは、オーケストラとは「賑やかさ」のことではなかったか。
http://spectacleonthebay.com/plays/silentfilm/